津村製麺所の歴史 HISTORY OF TSUMURA SEIMENJO

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津村製麺所の誕生。はじまりは一台のリヤカー

津村 春吉

一代目代表 1949〜58年

津村製麺所のはじまりは、一台のリヤカーだった。
春吉社長が作った麺は、讃岐うどんさながらのコシの強さが特徴で、うどん・ラーメン・そば・ひやむぎをリヤカーを引きながら自慢の麺を売り歩いていた。当時人口45,000人の北見市に笑顔と活力を与えた。

北見市に親しまれる製麺所へ成長

津村 薫

二代目代表 1959〜76年

初代から津村製麺所を引き継いだ2代目 津村 薫は従業員11人で麺づくりに奮闘した。トラックでお店に麺を配達するようになり、多くの市民に親しまれるようになった。
この頃、薫社長が特によく食べていたのが 「ひやむぎ」だった。店舗2階の製麺工場で生ひやむぎを作り、茹でたてを味わうことが日々の楽しみだった。

北見から全国に広がる製麺所へ

津村 由喜

三代目代表 1976〜2014年

地域に根差した製麺所として成長を続けた津村製麺所は、三代目の津村由喜社長の代で更なる飛躍を遂げる。従業員数は30人にまで増え、工場は20代を中心とする若者たちの活気と熱気に満ちあふれていた。
麺類の製造に加え、豆腐、納豆、こんにゃくなどの加工食品も手掛けるようになる。津村由喜社長は、全国への販路拡大にも積極的に取り組み、北海道物産展への出店にも力を注いだ。

勢いがある社内で由喜社長が常に口にしていたのは、「本物の味をまごころ込めて」という言葉だった。
原材料に妥協せず、製造工程にも良い物を作る想いを込める。その徹底した品質管理は、従業員にも厳しく指導されていた。その言葉は配送トラックにも刻まれた。
そうして、こだわり抜いた「本物の味」は、全国へと広がり始めた。

※現在は豆腐・納豆・こんにゃくなどの加工食品の販売は行っておりません。

世界をみた生ひやむぎ。北見への原点回帰で成長を遂げる津村製麺所

津村 健太

四代目代表 2014年〜現在

四代目 津村健太は、「本物の味をまごころ込めて」という創業理念を受け継ぎ、オホーツク産小麦の使用、オンラインショップ開設、工場直営店舗「TumuLab」オープンなど、様々な取り組みを行った。

なかでも幻のレシピ「生ひやむぎ」の復活は、津村製麺所の原点回帰ともいえる出来事だった。
業績悪化のさなか、祖母の遺品整理で偶然見つけたのが、見慣れない「ひやむぎ」という文字を看板に掲げた古い写真だった。過去と現在が一つの絆で繋がった瞬間だった。

原点に立ち戻った津村製麺所は、果敢にチャレンジを続けた結果、世界へ。
大学教授との共同開発により誕生した「無敵の切麦 オホーツク生ひやむぎ」をイタリアミラノ国際博覧会へ出展する。

原料をオホーツク産小麦に切り替えたことも、“原点回帰”への情熱を強くさせた。先人たちの愛した生ひやむぎを、オホーツク産の小麦でつくり、北見の人々に食べていただく。
それこそが原点であり、津村製麺所としての恩返しなのではないか――津村健太は確信した。
北海道初の生ひやむぎ専門店「TumuLab」は、そうして生まれたのだった。

無限の可能性に満ちた、オホーツクの地・北見。変えてはいけないもの、変わるべきもの。
「本物の味をまごころ込めて」という創業者の理念が、津村製麺所のあるべき姿を教えてくれる。
四代目・津村健太の挑戦はまだまだ終わらない。

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